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未遂

2012/04/24 10:56

 

 結果を大別すれば二通りに分けることが出来る。成功したか、失敗したか。この括りを犯罪に当てはめれば、失敗というのは、つまりは「未遂」に他ならない。

 もちろん、犯罪そのものを取り締まることは当たり前であるとしても、たとえそれが、失敗という結果に終わったとしても罪を問う姿勢を明確に見せているのは、それだけ犯罪というものが大きな影響を与えるものであるからだろう。が、だからこそ、それを示唆したり手助けしたりすることも、同時に罪として裁かれる必然がそこにあると思う。

 とはいえ、そこに何らかの意図が込められていて誘導するような立場であったとしても、教唆や幇助はあくまで従犯であり主犯と考えるのは難しいのではないだろうか。何より自由意志というものを尊重するものであるのだとすれば、そうでない方がおかしいとも思える。

 だが、そういったことからすれば疑問に残る犯罪というのがある。

 犯罪の中で最も罪深きものは人を殺めることであろうけれど、他者を殺めるということと、自らを殺めることはどれほどの違いがあるのだろうか。全く違うという考えもあるし、全く同じという考えもある。

 どのような事情であれ人を殺めることが絶対的な犯罪行為であるのならば、戦争も死刑も自殺も当然罪に該当するが、それぞれの事情や状況を考慮することによって、これらを明確に分類することもできるだろう。他者を殺める可能性を表明すると同時に、自らも殺される可能性を受け入れること。予めどういった条件によって命を奪うかを提示すること。自由意志に基づいて自らの生命すら本人に委ねること。

 生き方そのものを左右するような根源的な問いかけに対し、誰もが同一の解答をするはずもないとしても、ある程度の輪郭を確定させていなければ秩序を維持することは叶わない。それ故に、結局は常識によって判断され、その常識から外れることは決して許されることとはならないでいる。自殺防止の取り組みがそれなりに行われているのは、基本的に自殺は罪であるという常識が堅固に存在しているからだろう。

 実際には、自殺したものに対し罪を問えないのは仕方がないものだとしても、それを教唆したり幇助したりすれば立派な犯罪の対象となる。しかし自殺が未遂に終わったとき、本人は処罰の対象となっていない。

 「自殺教唆罪」や「自殺幇助罪」はあるのに「自殺未遂罪」というものは存在しない。あるいは、自殺が成功したとして、それによって保険金が支払われるという図式(もちろん契約によるだろうが)は、「自殺」そのものは犯罪の対象になり得ないという認識に立っていると見るのが自然であろうと思う。でなければ、犯罪行為に対し保険金を支払うということになってしまうのだから。

 だとするならば、絶対的に主犯である本人よりも従犯たるものの方が重い罰を受けるという意味に他ならない。ある意味で、このような混乱は自殺という行為に対し、どのようなスタンスを採るかということが不明瞭であるという事を露呈していると思う。

 もし、自殺が罪に値しないようなもの、自殺というよりは自決を尊重するのであれば、教唆はともかく幇助が罪に該当してしまうのは不自然であるし、どのような事情であれ自ら命を殺めることを許さないのだとすれば未遂も立派な罪であるし、保険金を支払うべきではないのではないか。

 

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習性 ニュース記事に関連したブログ

2012/04/17 12:54

 

 いくら独創的であったとしても、それはあくまで他者との比較という点においてであって、同一人物である限りにおいては、それなりの共通性は見受けられるものでもある。もちろん、時期や時代の変化によって同一人物の方向性が極端に変化していくのだとしても、同時的に全く違うベクトルのものを生み出すということは、そうそうあるものでもないだろう。

 何故そうなるかといえば、結局のところどういった方向性に、思考が進められていくかということに還元されていくのではないだろうか。しばしば、優れた人物によって「時代が変わる」という認識が持たれてしまうのは、今までの全体的な思考の在り方を変えさせるだけの衝撃をもたらせるからで、厳密な意味で言えば、英雄は時代を動かす力は持ち得ても、時代を変えるだけの力は無いというべきでもあるように感じられる。時代が変わっていくのは、人々の意識の変化によってでしかないのだから。

 誰もが思いもしなかった観点から物事を見つめることが出来るからこそ独創性は生まれてくる。であれば、独創性を生み出したいが為に「他と違うもの」という意識で物事に取り組んでいくことになれば、その思考法は全く同一のものになるとも言える。

 どちらにせよ、どのような道筋を辿ってゴールにたどり着くかということが重要であることを思えば、大雑把であるにしても、ある程度の道筋を予め確立させておくことによって余分な寄り道を排し、無駄を生み出してしまうエネルギーの節約に貢献することで、一つ「形」の完成をより確実なものへと繋げる手助けにはなるだろう。教育や訓練というものは、如何にそういった形態を作り上げるかということに本来の目的があり、であればこそ繰り返し繰り返し行うことの重要性が説かれることになるのではないだろうか。

 そういう意味で言えば、所詮人の行動原理の奥底にあるのは今までの習性であり、物事を変化させていくためには、習慣を変えていくしかないということになる。

 一時期リーダーシップ論が流行したが、独裁とリーダーシップとの違いを考えれば、リーダーシップが自分に従っていくべきものの習性を変えていくことにあるのに対し、独裁は自分の指揮に従わせているに過ぎないということだろう。行動原理が、誰か特定の人物の影響下にあるということに満足しているのであれば、その人物がいなくなれば、その原理そのものの根拠が失われてしまうということを意味する。

 優れたリーダーの下から俊英が生まれてくるのとは違い、独裁の下からなかなか傑物が生まれ難いのは、そういった点が大きな意味を持っているからではないだろうか。

 

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以後 ニュース記事に関連したブログ

2012/03/09 16:54

 

 区切りというものは、任意にしかも無数に作り出すことが出来る。だが、それが大きな出来事であればあるほど、社会では当たり前のように以前と以後という形で区別されていく。

 連続した時間を生きているものにとって、その先にある世界が想像の範囲内であれば、以前と以後を分かつことの重要性は高いものではない。しかし、区分の判断は個人の想いとは別な部分で推移するものでもあり、どれほど個人にとって小さな出来事であったとしても、あるいは逆にどれほど大きな出来事であったとしても、社会的な影響力に左右されてしまう現実は否めないだろう。

 であればこそ、一つの出来事の以前・以後で違うスタンスをとるということが、当然のように求められてしまう。

 けれども、非キリスト圏ではA.D.とB.C.の区分が本来それほど重要ではないように、その出来事に対してどのようなスタンスを取るかの自由は、あるのではないだろうか。社会的に大きな出来事よりも、個人的に大きな出来事に強い影響を受けたとして、それを謗る権利は誰にもないはずなのだが。

 もちろん、大きな出来事を無視できるほど個人が社会より独立しているわけでもあるまい。とはいえ、どれほど巨大であろうとも、それが想像し得た範囲内のものであれば、あえてそこに区分を設ける必然性は存在しない。

 極端な言い方をすれば、六千人を超える人々が亡くなった十七年前の出来事も、十万人の命が失われた八十九年前の出来事も、鮮明な記憶として残されていたならば、「3.11」は、これほど特別な一日としての意味を持たなかったようにも感じられる。

 

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迂遠 ニュース記事に関連したブログ

2012/03/07 14:27

 

 しかし、無駄かどうかなんて簡単に分かるものだろうか。人間が生きるために必要なのは、言うまでもなく体を動かすためのエネルギーであろう。それは、食糧を調達することによって成し遂げられる。実際、多くの生命はエネルギーを獲得するために余計な寄り道はせず、最も効率的な手法を模索しているのだから。

 人間は、「生きていかなきゃならない」なんてことをのたもうたりするわりに、生きるために必要なエネルギーを直接確保する道を選択せず、わざわざ貨幣を用いて交換するというような迂遠な道を選んでいる。間接的とはいえ仕事という食糧を確保するための行動以外を、簡単に“ムダ”と切り捨てる文脈に従うならば、むしろ、直接に食糧に関係しない仕事なんてものは、すべてムダであるというべきだろう。多くの広告が溢れ、そのどれもが必死になって需要を喚起している様は、結局は、本当はそれほど必要でも無い物が、この世には沢山あるということを証明している。

 だが、一見全く関係のないような分野での発見が、他に影響を与えたりする場合もあるのだから、そう簡単にムダと切り捨てるわけにもいかない。必要かそうでないか。何を基準に置くかによって、その評価に大きな違いが出ることは容易に想像することが出来る。たとえどような種類のものであるとしても、仕事さえしていればよい。

 そういったことが基準になってしまえば、無駄であることを避けるためだけに、無理やりに仕事を作り出すような事態にもなり兼ねない。結果、べつの意味での無駄が量産されることになるだけだろうと思う。役所仕事でそれを感じている人は、少なくないのではないだろうか。

 働き者というイメージの強いアリの集団の中でさえ、遊んでいる者は少なくないという。それでも有益にコロニーが運用されているのは、少なくともそこに“ムダ”が存在していたとしても、それを許容し得るだけのゆとりがある、ということの証明なのではないだろうか。必要最低限にプラスされるゆとり、あるいは、社会の中にある許容範囲。それを“遊び”と表現したりもするが、このような部分を無駄と切り捨てたりすれば、たちまち上手く機能しなくなる。一見、必要でないと見えるものであるとしても、どこかで役に立っている場合も少なくは無いだろう。

 目的地に最短距離で向かうことだけが、唯一の解答とは限らない。時に、遠回りに進むことが有益である場合もある。容易に感じ取れないからと言っても、必ずしも無駄であると確定されるとは限らないのだ。

 

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知能 ニュース記事に関連したブログ

2012/02/24 17:30

 

 たとえ「ディープ・プルー」がチェスの名人に勝利したのだとしても、このソフトそのままでは将棋で勝負することは出来まい。もちろん、プログラムをし直せば強くすることは十分に可能であろうけれど、チェスや将棋・囲碁といったいくつかの対戦を同じソフトで行ったとき、勝敗はどのようになるのだろう。

 人間と同じようにコンピュータもまた、ルールを受け入れることで能力を向上させていくのだとしても、応用という面において遥かに人間の方が上であろうと思う。

 将棋の高有段者は、囲碁やチェスにおいてもそれなりの強さを発揮する人は少なくない。マインドスポーツという面においては、たとえルールが違うものであるとしても、そこに求められる根本的な能力にそれほどの違いがあるわけではないという事を意味していると思う。それは、スポーツや芸術といった分野においても同じことであり、基本的な能力が優れていれば、どのような世界においてもそれなりの力を発揮することは疑いえない。

 「知能」という言葉を辞書で引けば、【知識と才能。知性の程度。環境に対する適応の能力】と出ている。極めて限定された環境においては、コンピュータの方が上位に位置し得るだろう。けれど、コンピュータがどれほど勝負に強くなっていったとしても、そのプログラムを人間が作り出しているという構図は変わらない。いづれ、自己形成するようなプログラムが登場するのだとしても、コンピュータの命を保つために、自らエネルギー源を確保するという事態には、なかなかならないのではないだろうか。

 ジャンプ力や足の速さ、視力や嗅覚といった人間の基本能力よりも、遥かに優れている動物はいくらでもいる。だが、そんな動物たちを打倒し得る力を創造することで、上位に君臨することに成功してきた。挙句に、そうやって生まれた科学の成果を維持せんが為に、(植物を代表とする生命のように)エネルギーそのものを生み出すことにまで成功している。

 環境を改変する力を持たず、どういった環境であるかが事前に設定されていなければ、まともに能力を発揮することもできないことを思えば、所詮、コンピュータは知能という面において普通の動物にも敵わないとすら言えるのかもしれない。

 

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大局 ニュース記事に関連したブログ

2012/02/19 23:46

 

 どういったシステムであれ、実際に運用するのが人である現実は変わらない。同じシステムであるのに、一方でスムーズに機能したとしても、他方では巧くいかないということもある。

 結果を見て真似るのは自由だが、その場を構成する人々の気質に合っていなければ、どれほど優れた装置であったとしても、有害なものにしかならないだろう。だからこそ、どういったシステムを導入するかということが、最も考慮すべき問題として立ちはだかってくる。

 ということは、人の変化によって、そのシステムの有用性もまた変化していくということを意味している。一度構築されたシステムが、いつの間にか有効に機能しなくなってしまうのは、いつまでも同じ環境が続くというわけではないという事を、雄弁に物語っているのだろう。

 国家にとって、システムを構成する根幹に位置しているのは憲法だ。国の統治形態は憲法によって形付けられている。

 その政府は、立法府が作り上げた法律・予算に従って運営されていく。であるからこそ、立法府を目指す候補者の政策や政治理念といった考え方を知り、それを吟味することで選んでいくことが重要となろう。

 政治家を選ぶのは国民だ。けれども、その国民に大局観が備わっていなければ、どれほど大局を見据えたシステムを構築したとしても、それを有効に使うことなど出来はしないだろう。衆議院の任期は四年。参議院の任期は六年。決して短いとは言えぬ任期が予め設定されているのは、最低でもそれだけの期間を見据えて挑まなければ、「政治」としては話にならないということであるのではないだろうか。

 だが、コロコロ変わるような政治を嫌いながらも、任期満了まで政権が一貫して無事に務まるような政治を、本当に有権者は望んできたのだろうか。

 「早く、解散総選挙を」「一度、やらせてみよう」「政権にお灸を据える」

 選挙のたびにいろいろな声が聞こえてくるが、そこに有権者が大局観でもって望んでいるような声が聞こえてくるわけでもなく、眼前の結果に対する反応でもって終始しているように思えてならない。大きな一票という力が、ただ過去の是正にしか向けられていないのだとすれば、そこにどれほどの無駄なエネルギーが費やされていることになるだろう。

 現在の統治の在り方の制度不良といったものが表れているのは事実であるとしても、政治家だけではなく投票する側に大局観が備わっていなければ、迷走を繰り返すだけに終始してしまうように感じられる。

 

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通年 ニュース記事に関連したブログ

2012/02/05 23:32

 

 東大が秋入学にシフトしていくために、企業側に対して秋入社を求めたりもしている。大学卒業者を企業へと吸収させていく必要が大学側にあるからこそ、こういった要望が生まれてくるのだろうが、だからといって、大学側だけに要望する資格があるとも思えず、もし、企業側が通年採用を決定し、大学側に通年入学を求めたりすれば、果たしてどんな反応を示すだろう。

 その時期が移り変わるかどうかはともかく、大学は入学と卒業が完全に固定された状態を維持しようとするのだろうか。

 例えば、自動車免許のように一定程度の技能が身についたかどうかについては、適正その他によって著しい差というものがどうしても生じてしまう。それ故に試験を行うことによって卒業か否かを決定しているのが実際であろうが、それを思えば、ある程度の追試や留年といった事があるとはいえ、ある決まった時期にすべての人間の入学と卒業を決するというスタイルは、学問の本質に沿ったやり方と言えるとは思わない。

 学問を修めるということは、決して簡単なことではない。いくら講義によって指導を進めていくのだとしても、求めている問題と方向性が各人同じであるはずもないのだから、誰もが同じ期間で結果を求めることの方がそもそも間違っているというしかない。大学で続けていた研究を、そのまま企業に入っても続けるという選択肢も当然あり得るのは、それだけ分野によって一定の成果を得るために要する期間が、長くなることもあるということを物語っているだろう。

 ある意味で、それを企業側が理解していたからこそ、企業は「学問」の修業とは別に、自らの求める人材を自社の中で育てることに積極的であったのではないだろうか。最近まで、高校や大学への進学率が高い訳ではなかったのは、必ずしも「学問」を修めることが、企業にとっての絶対条件ではなかったということを意味している。

 それがいつの間にか学歴が重視されるようになってしまった。同時に大学の質の低下が叫ばれるようになったのは、むしろ学業の硬直したサイクルに、企業が振り回されている結果とさえ言えるのではないだろうか。あるいは、所詮大学は「学問」を修める場ではなく、企業へのパスポートでしかないということを露呈しているのか。

 

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分別 ニュース記事に関連したブログ

2012/01/27 21:39

 

 普通の居酒屋で、エールビールを飲みたいと願ったとしても必ずしもそこに置いてあるとは限らない。それ故に、エールを飲もうという意志を示すだけで、我儘と受け止められてしまう場合もある。だが、それは日本という場所だからこそ成立する話で、イギリスアイルランドであれば普通に置いてあるものだ。だからその場合、別に我儘でもなんでもないだろう。どちらも、同じ物が飲みたいと思っているだけであるのに、時と場合によって捉えられ方は異なってしまう。

 自分自身の趣味嗜好が他の大部分の人たちと重なっていれば、たとえ自己の欲望に忠実に振る舞ったとしても、それで誹りを受けることは少ないように思う。けれども、比較して少数に陥ってしまったときに自己の嗜好を追い求めることは、必ずしも歓迎されることにはならない。

 だからこそ、多数を形成している考えに従うべきという科白が、それなりの説得力を持った言葉として受け止められる傾向が生まれてくるのだろう。昨今はやりのグローバル・スタンダードもまたその考えの延長線上にあると思う。けれども、少し考えれば、それだけでは何ら説得力を持ったものでないことは、すぐに分かることだ。

 阪神・淡路大震災や東日本大震災において、日本人の振る舞いが国際的な慣習から外れていたことが、大きな賞賛として讃えられていたが、多数に従うことこそが正しいとするならば、このような振る舞いはグローバル・スタンダードから外れること以外の何物でもなく、むしろ国際的に当たり前と思われているような、強奪や暴動などといった行動を起こすべく改めるべきである、というべきだろう。しかし、こんな論理がまともに受け入れられないことは言うまでもない。

 少なくとも、人は盲目的に多数に従っているわけではなく、多数が多数を構成し得るだけの理由がそこに加味されているからこそ、たとえ多数に属することになったとしても拒絶反応を持たないだけの分別を備えている。なればこそ、相手を説得するためには単に多数であるというだけでは不十分で、それが多数に居ることの利点を挙げるだけだったとしても、それなりの理由が必要となってくる。良し悪しを判断するための材料として。

 そういう意味で、多数に属することの利点しか材料がないのだとすれば、つまりはそれで良し悪しを判断するということを委ねることになるのだから、大して分別の能力を期待していないとも言えるのではないだろうか。それで良しとするかどうかは、また別の判断であろうけれど。

 

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打倒 ニュース記事に関連したブログ

2012/01/23 12:35

 

 自らの思いを実現するために、人は権力を手にする。けれど、もちろん人それぞれ期するところがあるが為に、権力を巡って争いが繰り返されることになる。

 政治とは、その争いの手段を制度化したものに他ならない。制度化することによって割けるべき労力の方向性を明確にさせ、余分なエネルギーの浪費を避ける知恵であることは間違いがないとしても、どうしてもそこに妥協が含まれてしまうことは否定しえないと思う。ある程度のルールに則って行動を起こすということは、すなわち、そのルールに縛られるということに他ならないのだから。

 いくら「正しい」という事柄を実行しようとしたとしても、それが許されるとは限らないのが制度の縛りであり、それ故に、時には間違った方向に政治は流れていくこともある。誰が権力を握るかで政治が決定されるものである以上、その政治の在り方を制度化するのは当然の帰結であるのかもしれないが。

 少なくとも一人一人の思いが違うものである以上は、完全な価値観の共有など望み得ないものでしかない。それでも成立するのは、多少の不満が残るとしても合意に達せられるからであり、それは話し合いでこそ出来ることでもあるだろう。とはいえ、その不満すら排除して、本当に自らの思いを確実に実現するためには、他の勢力を打倒して全権を握るしかない。

 しかし、いくら打倒に成功したとして雪辱の機会を相手に残してしまえば、今度はこちらが打ち負かされてしまうという可能性は残る。その可能性を完全に排除するためには、それこそ相手がもう立ち上がれないほどの、こちらに向かってくる気力すら生まれないほどの打撃を与えるしかない。具体的にいえば、恐怖を与えられるかどうかにあり、問題は、一つの制度の中での結果で、そこまでの打撃を与えることが出来るかどうかという点であろう。

 “ねじれ再び”の現象を見るまでもなく、選挙制度は常に雪辱の機会を残す制度でもある。言葉を用いて相手を説得する。無駄なエネルギーを浪費しない有効な手段であるとはしても、権力が流動的に推移することをむしろ推奨すらしているような制度において、打倒は所詮かりそめでしかないのではないか。

 話し合いが最後の手段足り得ないのは、正にその弱みがあるからであり、そうであればこそ、武力という手段を排除しようとしないのだろう。極端な話、相手を物理的に抹殺することこそ究極の打倒であるのだから。そこまでいかないとしても、それすらあり得るという疑念が成立するかどうかということは、相手をより確実に「打倒」し得る可能性を少しでも高めることには繋がる。それもまた一つの知恵であろうが、今の日本はその知恵の行使を拒否している。

 最後の手段を持っていない。それが透けて見えるだけでも弱い立場に甘んじることになってしまうが、その不利な状況を覆そうとする気があるようには感じられない。にもかかわらず、外交力の弱さを批判するのは、戦闘機に竹槍で挑もうとしたことを侮辱するのと、本質的に何ら違いがないのではないか。

 

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名聞 ニュース記事に関連したブログ

2012/01/20 13:04

 

 自ら望むということと、他者が勝手に行うということは同じではない。そんな事実も、「権威」というものが付随するに従って曖昧になっていくものであるようにも感じられる。

 表現をすることは他人に自らの作品を晒すということに他ならないが、だからといって、その作品に対しどのような方法で評価を下すよう望むかという自由は、究極的には作者の側に帰するのではないだろうか。

 表現という行為の最大の難点は、一つの作品の評価は、別の作品の評価を決定付ける決定的な要因にはなり得ないということだろう。どれほど素晴らしい作品を作り上げたとしても、その次の作品が同じような価値を持つものになるとは限らない。だから、新人であろうともベテランであろうとも、基本的には同じ土俵で勝負せざるを得ない。

 けれども、必ずしもすべての作品に正当な評価が下るわけではないし、今までの実績が評価に影響を与えるということも否定できまい。どれほど優れていようとも、やはりそれなりの段階を経なければ、正当的な評価すら期待できないというのが現実であるのではないだろうか。そうであればこそ、はじめはとにかく認めてもらうということが必要になってしまうのだし、その為の手段として数多くの“登竜門”と呼ばれる場所が存在している。

 新人に対する賞の多くが公募によって成り立っているのはその為だろうし、ある程度の実績を持つものに対する賞が推薦によって成立しているのもその為だろう。

 だが、少なくとも積極的にランク付けによる評価を願うということをも意味する応募と、必ずしも本人の意志とはかかわりなく他薦によって成立するものとでは、その評価を受け入れる姿勢に違いが表れるのは当然である。わざわざ本人が募集に応じた賞を辞退するなんてことは、よほどのことが無い限り起こり得ないこととは違って、推薦によって選ばれた人間がしばしば辞退を表明しているのは、簡単に言えば勝手に評価されるということが、如何に気に入らないものであるかということを物語っているように思う。

 いくらそこに伝統や権威が存在していようとも、そのような存在をそのままの形で認めていなければ、そこの評価を正確に受け入れるということにはならないだろうし、そもそも評価されるということの必然性を感じるということにはならないだろう。評価を下すにあたっての最初の分岐点が、自らその作品の対価を支払うことで作品を目にする機会を得ているかどうかにあることを思えば、しばしば権威ある側が正当なる対価を支払って作品に触れていないという事実は否定し得ないように思う。

 身銭を切るという行為は、決して楽な行為ではない。それ故により真剣にならざるを得ないし、逆に言えば、それがあまりに苦痛であるからこそ、他者の評価に従うことでその辛さを回避しようとする傾向が生まれているともいえる。それは、別に個人レベルに限った話でもなく、権威が高まっていくに従って評価する側の意志が、そのような方向に傾倒していっているのではないだろうか。

 もちろん、評価する側もどのような作品を選ぶかということで評価されている。しかし、誰もが権威ある側の評価に従うこととなれば、権威ある側が選んだ作品は、その事実でもって評価されることになってしまうだろう。結果的には無謬が生まれることへと繋がることでもあり、だからこそ、そこから必死さは失われていかざるを得ない。表現する側にとって一番大切なことは、如何に自らの想いを伝えるかにある。それは本来、真剣に向き合うものに向けられるもので、権威に胡坐をかいているものに向けられるものではない。

 評価する側は、常に同時に評価される側に身を置いているということは忘れてはならないと思う。

 

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