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2008/05/28 18:29

 

 言動のすべてをかき集めたとしても、人の心情を正確に理解することは不可能だろうと思う。そもそも、自身が完全に把握しているか問えば、心許ない部分がどうしてもでてくるだろう。それは、人間という存在が"理性"と"感情"という相反する二つの性質を両立させているからでもあり、"意識"と"無意識"という二つの姿に支配されているからでもある。
 だから、人は可能な限りの情報を集めた上に、想像という形でもって全体像を補っている。そうやって構成された全体像が正確であるとは限らないが、しかし、それを見る側、受け止める側の人間もすべてを把握しているわけではなく、やはり同じような情報と想像を行使している。であればこそ、全体像はさほどかけ離れたものとはならず、お互いが諒解し合う状態に落ち着いてゆく。
 つまりは、ある意味で共感という感情を湧きあがらせるものでなければ、全体像は支持されることはない。どれほど、本人にとって自明であろうとも、周りの人々が誰一人納得するものでなければ、その主張は認められない。
 事件時によく使われる『意味不明の言動』という表現は、文章として成立しているものであるとしても、到底容認出来ない理由が述べられていることに対して使われることが主であり、必ずしも意味が全く分からない、日本語になっていないというわけではない。
 とはいっても、やはりそれが会話や対話というコミュニケーションの手段として使われるものである以上は、お互いがその意味するところを理解し合えるものでなければならず、齟齬をきたすようであれば主張は全く通らなくなる。
 そういう意味では、人は"真実"を知ることよりも、納得し得る"理由"を求めるものではないだろうか。
 "真実"には、理解や納得といった受け止め方は不要でしかないが、"理由"には、理解や納得が必要とされる。だが、それもお互いが意見を表明しあう状態でなければ、コミュニケーションが円滑に行える状況でなければ、全体像はやはりぼやけていってしまう。
 人の死というものは、コミュニケーションの永遠の断絶である。そこには、もはや意思の相互理解の可能性は失われており、残された者は断片的な情報と想像のみで理由を構築していくしかない。そうやって作り出された全体像が真実である可能性は皆無に等しいものであろうが、多くの人々が納得し得る理由にはなるだろう。
 ただ、そのようにして導き出された理由をどう受け止めるか。それも考えるべきであろうと私は思う。

カテゴリ: リビング  > 暮らし経済    フォルダ: 人間

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